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11/13/21'   シェアその19「私の傍観者」を掲載いたしました。

お越しいただきありがとうございます。

 

 


シェアその19

私の傍観者


よろしくお願いします。
 
 
私の主治医は無責任です。
 
次にお会いした時には前回と言っていることが真逆になることもしばしばあります。
 
○○したら?と指示を出してきたかと思えば、クライエントがその指示に従って行動すると、次の診察では「あなたの〇〇には興味ないから」と平気で梯子を外してきます。
 
 
 
 私の主治医がやっていることは端的に言うと、岡目八目といって端から私達の状況を見たときに、「あなたの横にもっと簡単な道が空いているのに、なんで一人でがむしゃらにそんな所で空回りしているの。」と当たり前の客観的事実を指摘しているだけです。実況中継のようにサッカーの試合を俯瞰で見ている感覚に近いのでしょう。
 
とは言っても、究極的に言うと一人の人間が他者の人生に対して一生責任を取ることはできません。
それは治療関係でも同じことです。
 
 一回二回はそれでうまくいったとしても、連続する人生の問題の中で必ず責任が取れなくなり、関係が破綻する日が来ます。「あなたのせいで私の人生滅茶苦茶だ」と責める日が来るかもしません。クライエントの方で「主治医が私の人生選択を指示してきた。この医師が自分の人生選択の責任を取ってくれる」と誤解をしているのであれば、出来る限り早い段階でその誤解を解いた方が良いに決まっています。すると上記のような応答に自然と落ち着くのでしょう。
 
 
治療関係も人間関係。続く関係は良い関係です。続かない関係は悪い関係です。
 
 
 
 つまり私の主治医は人生における私の自由意思を最大限に尊重しているのでしょう。我々の取るべき責任が我々の権利と直結していることはこれまでのシェアの中でも話してきました。
 
 
 とある治療者は精神医療の在り方を”just listening” (聴いているだけ)と説明したそうですが、それに対して私の主治医は”just watching”と表現し、徹底して私の傍観者を演じてくれています。以上です。ありがとうございました。

シェアその1

私のコミュニケーションと扁桃体


よろしくお願いします。

 

 回復が進んでくると、おかげさまで人と話す機会や関わる機会が増えてきます。ありがたいことです。良い関係はゆっくりと少しずつ。突き詰めると自助グループの原理であるとりあえず挨拶だけするという話なのですが、なんでこんなに平穏に寂しさを味わえているのだろうとも思います。

 

 逆に今まで私のコミュニケーションに何が起こっていたのか。そして今何が起こり始めているのかを今日は話します。当たり前のことですが、会話では耳から言葉が入り、脳でその意味を理解して言葉を選んで返す。これが普通だと思います。私の場合は家族の一貫性のないアンビバレントなコミュニケーションでトラウマを蓄積させてきた複雑性PTSDです。信頼したり、距離を詰めれば傷つけられた。だからコミュニケーションでもトラウマ反応が出ていたのでしょう。トラウマ体験者は概して脳の扁桃体という部分が過剰に活動しています。扁桃体では入ってきた情報が危険か危険でないか瞬時に判断し、危険な場合は脳による思考を介さずに直ちに防衛体勢や戦闘態勢に入るための準備をする。私の会話でも常に扁桃体が過覚醒していたのでしょう。

 

 具体的に言うと、会話の際に脳の思考を司る大脳新皮質、前頭葉の前に扁桃体で情報がブロックされ、脳で会話を処理できない。何を言われているか理解することが困難であったりどんな受け答えをするのが適切か判断できない。ほぼ脊髄反射で会話をしていたのでしょう。こういった状態では上ずった空気の読めないことを言って当たり前ですし、皮肉や冗談などの二次的メッセージを読み取ることが難しくなる。まして言語の下に流れる文脈や相手の感情を汲み取ることは極めて困難になる。

 

 脳を持たないミミズは雨が降ると反射で地面に出て来ます。でも思考がないのでそこが水たまりだとそのまま溺れてしまう。そういった危険性が私の脊髄反射によるコミュニケーションでもあったのでしょう。これでは関係を作ることが難しいので支配が必要になってくる。殴ったり脅したりではない。良心を振りまきその対価を要求する支配の仕方だ。もしくは自分なしで生きられないようにする支配の仕方。つまり共依存という生き方。安易なやさしさや不要な保護は支配なのでしょう。

 

 さて、ここまでは通り一遍のベタな話をしてきましたが、トンチを利かせて逆説的に考えるとどうでしょう。裏を返せば、反射で会話し、脈絡のないことを言ったり、時には傷つけることを無意識に言ったりすれば、人と関わらなくて済む。人間関係がなければ傷つけられずに済む。長期的に見ると孤独だが、その場その瞬間の安全を確立するためにはこの上なく理にかなっている。私のような機能不全家族で複雑性PTSDを持った人間には好都合だ。そもそもあの家ですべての情報を処理していたら絶望して生き延びられなかった。

 

 しかし、問題なのはその危険が去ったあともその防衛システムのスイッチを切ることがなかなか出来ないことだ。数年、数十年、場合によっては生涯に渡って続く。それには治療が必要になってくる。

 川で小さい子供が足がつかなくて助けを呼ぶのは適切な行動だ。しかし、大人になって水深が膝下になってもやっていたらどうだろう、さらには川の水が完全に干上がっているのに溺れる溺れると助けを求め続けるようになっていたら。むしろその対応のほうが問題だ。問題が問題なのではなく、問題をどう取り扱うかが真の問題とはこういう意味。

 私も治療が進んでそのスイッチが少しづつ切れてきたのかもしれません。若しくはONOFFが少しづつ出来るようになってきたのでしょう。

 

 今となっては、安易なやさしさや他人への介入、アドバイスはむしろ相手の話を聞かないための技術なのではないか、とすら思う。夜の飲食店で酒の入った人間の説教を横で聞いているとそれがよくわかる。また私は無頓着ですが、ファッションとは引き算であるという言葉があるそうです。器量のない人ほど流行りものやアクセサリーをゴテゴテと足し算してしまうらしい。コミュニケーションももしかしたら引き算なのかもしれません。少なくとも支配欲求のある共依存性者にとっては。

 

 自分は大脳生理学について無知の雄弁を振るいたいのではない、感情鈍麻したロボットが人の感情を理解しようと努力しているだけだ。感情、特にネガティブな感情を原始的なレベルまで分解していくと、扁桃体等からの1か0という信号でしかないのかもしれない。我々はそれを大脳新皮質等で考えてどの感情なのかラベル貼りをしていく。例えばこんなに震えているのは怖いからだとか、こんなにザワザワするのは不安だからだと。感情を否定していると誤解されるかもしれないが、だからこそ希望があると私は思う。裏を返せば事実自体は変わらなくとも、思考や脳の認識の問題ということであれば、記憶はいくらでも編集可能なのだ。小説は人生はいくらでも編集可能なのだ。それがナラティブという考え方。今まさに私がやっていることだ。自分の不得意なことや生きにくさの話だったものが、インナーチャイルドがいかに私を守ってくれて立派にサバイブしてきたかのストーリーに昇華していっている。

 つまり、我々の人格及びトラウマは事実を基に構成されるのではない。記憶を基に構成される。そして記憶とは事実の評価(evaluation)にしか過ぎない。

 

 人は寂しいから人と関わろうとするし、社会と関わろうとする。それが動機になる。逆に寂しさを感じない人間こそが真の孤独なのではないだろうか。寂しくなれただけでもう人間として花マルなんじゃないだろうか。

 とまれ、インナーチャイルド君、今まで守ってくれてありがとう。でももう足はつくんだ。大丈夫キミなら出来る。以上です。ありがとうございました。