シェアその15

meme蝉


よろしくお願いします。

 

 とあるグループでとあるメンバーが会場の前で並んでいました。しかしコロナ下で密集を避けるためその人は集団に配慮して一旦並ぶことをやめました。自助グループは公民館や教会などのスペースをお借りして開催している場合が多いので、万が一が起こらないようにお互いに工夫が必要です。別の場所で待っていたようですが、次に戻ってきたころには長い列が形成されていてその人は最後になりました。最近、会場では人数制限が設けられる場合も多いです。

 

 そこで私は事情を説明して真ん中くらいに入れてあげました。集団全体の利益を配慮した人間が不利益を被ることは避けたいと思いました。その行動に対し感謝、敬意を行動で示したかったのです。また、依存症者は人間関係に問題があるから治療に来るわけですから、その人がそれだけ変化をしていること自体が貴重で凄いことです。そんな回復の芽を摘むような真似はしたくなかった。そしてその人の人権のことをそこそこ考えている人間が周囲にいるということを伝えたかった。後ろに並んでいる人たちには私から経緯を説明しました。狭い場所だったので、後方5~7人ほどしか聞こえなせんでしたが、他の人には別の機会に説明しました。

 もちろんそれを言語化し、協議や提案などをするのはその人の権利なので、これからは私がその権利を搾取するつもりはありません。

 

 すると後日、別のグループに行くとこんなことがありました。用事があったので仕方なく遅れて参加したのですが、その会場はコロナ対策として人数制限を設けているので、私は入場出来ませんでした。これもまたハイヤーパワーなので受け入れようと考えていたところ、中から初めて会う仲間が出てきて「私はもう話し終わったので入っていいですよ」と言って私を中に入れてくれました。その人は外で待っていてくれました。さらに他の仲間がその仲間と途中で交代していました。

 

 

 社会とはこういうものかと理解しました。この世界は美しいなどと無責任なことを言うつもりはありませんが、他に目をやると助けを必要としている人がいて 逆に私を助けようと関心を寄せている人がいるということを理解しました。

 自助グループには個人の回復は全体の一体性にかかっているという意味の言葉がありますが、それは決して参加者を律するための言葉ではなく、このように純粋に個々が回復するための原理なのでしょう。

 

私はいつも自分自分言っていた気がします。

自分はこうしたい。自分はこれが欲しい。

自分はこうなんだ、もっとわかってほしい。

自分のことをこう思ってほしい、こう接してほしい。

自分は苦しんでいる

自分がかわいそうだ

自分自分自分自分…

 

 

とある精神科医はそういったトラウマ体験者が防衛的に陥りがちな肥大した自己愛を指して「meme蝉」と呼んでいます。自分という意味でのmeです。いつも自分自分言っていて、私は周囲に対して、人に対してあまりにも盲目で、それがかえって私自身を社会の中で生きにくくさせていました。

 今、自分しかないmeme蝉でもなく、かといって学生時代のような気を回し過ぎる共依存でもなく、ようやく私は他人を発見し始めたのかもしれません。

 

 また、とある精神科医は重ねてこのようにも言っています。人間は他者との関わりの中で他者を鏡のように使って自己理解をすると。つまり私が他人を発見したということは、私が私自身を発見しつつあるということなのかもしれません。これまでのAC特有の何をしても感情鈍磨していて楽しいのか悲しいのかわからない、亡霊のような状態から実体を持ち始めているのかもしれません。やはり、我関わる、故に我在りなのでしょう。かくれんぼは一人ではできない。以上です。ありがとうございました。