シェアその3

責任と権利


よろしくお願いします。

 

  以前のシェアで家族との一貫性のないアンビバレントなコミュニケーションと説明しましたが、今日はどんなことが小さい頃からあったかほんの一例を話したいと思います。

 

 小学生低学年の頃、おもちゃの鉄砲、所謂エアーガンで友達とよく遊んでいたのですが、ある日母親がそれを持ってきて怒り始めました。母親が言うには母に黙って私が新しいエアガンを買ったと主張しているのですが、それは一年以上前から私が持っているもので母も何度も見たことのあるものです。私はきちんとその旨説明しましたが、母はどんどんヒステリーになり、挙句の果てには領収書も外装箱ももうないのに、それを買ったおもちゃ屋さんに返品しに行くと言い始めました。そのエアガンの構造自体は片手で持てるハンドガンと同じで威力も全く同じ安全なものなのですが、見た目だけは戦争映画に出てくるような所謂突撃銃でした。私はそのおもちゃ屋の主人と顔なじみなのですが、もちろん母は初対面です。そんな見ず知らずの中年女性がおもちゃ屋にむき出しの突撃銃を両手で構えて店に入って来る。そのまま領収書も外装も無しにどこで買ったかも証明できない商品を返品させろとまくし立てる。前述のように買ったのは一年以上前です。さながらランボーや強盗の様な状況に警察や病院を呼ばれてもおかしくなかったと思いますが、もちろん返品は受け付けてもらえずそのまま突撃銃を抱えて帰ってきました。

 

 母は拳の落とし所が分からなかったのか、何故か私は家の敷地内にある暗く湿った倉庫に一日閉じ込められました。心配した父が様子を見に来ましたが、父もその状況は全く理解出来ないのでとりあえず父が絞り出した言葉は「もう二度とやらないか?」と言うだけでした。私も何をもうやらないのか全く意味がわかりませんがしょうがないので「うんやらない」と返して、その謎の儀式に付き合いました。意味不明な会話でようやっと私は監禁から解放されました。実はその際にも母親がそれを阻止しようとやってきて、大変だったのですが割愛します。後日そのおもちゃ屋さんには何故か小学校低学年の私が代わりに謝りに行きました。

 

 悪い意味で母親らしいのはエアガンが危ないとか見た目が怖いから怒ったのではなく、お金の無駄遣いだと怒ったということです。小学校低学年が自分のお小遣いの範囲で以前から計画していたおもちゃを買って何がいけなかったのか今もわかりません。決して高価なものではありませんでした。さらに混乱させるのは、母親はそのエアガンを隠したのですが、私はすぐにそれを見つけ数日後からまた遊び始めました。母もそれを見ていたのですが、全く無反応でした。そういった不条理な母の怒りは昔から多く、私が(よくわからないがこれだけ怒っているのだからまたいろいろ説明せねばならない)といろいろ準備しておくと、次の日にはケロッと忘れたかのように全く怒られない。母親の指摘していた問題とする行動を取っても全く無反応になる。それはそれで楽な面もあるのですが怒られる基準も対応も一貫性がなく、非常にアンビバレントで親と関わることに苦労することがありました。

 

 人によっては些細なことに見えるかもしれませんが、そんな日常の「当たり前」だからこそその家の癖や病的な考え、関わり方というものが色濃く反映されるものです。メタファー(隠喩)とはこういうこと。

 何故母がこういった行動に出るのかというと、 母自身が厳しく育てられ懲罰的自我が強く、自責感情が強いことと比例して他罰傾向も強いのでしょう。小さい頃からぞんざいに扱われているため、自分の痛みの感覚も鈍麻しているのでしょう。残念ながら子供の痛みも気づきにくい。そして母は子供と同一化して子育てをする。自分の分身が自分がしてはいけなかったことをしていたらそれは大慌てで罰しに来るのでしょうがない。おそらく母自身が自分で自分に何かを買うことを許されていなかったのかもしれません。

 

 でもわかってしまえばそれまでだ。大人になった今は対応を取ればいい。それを差し引いても母はよくやってくれている。自分には治療が必要だったしそれをやってきた。それは胸を張っていい。しかし私は私の病気をいつまでも水戸黄門の印籠のように使うつもりはない。

 私は家族と他人の責任を追求するあまり自分の責任も手放そうとしていたのかもしれない。責任と権利は表裏一体、陰と陽の関係。その二つを併せて全体性と為す。責任を手放せば自分の全ての権利も失うことになる。それもまた私を生きにくくしていたのかもしれない。物事には全て対価が生じる。スイカの甘いところだけを食べるような人生は許されないらしい。何よりそんな人生はひどく空虚でどんな人生よりも不幸だ。母の感情鈍麻のように痛み苦しみなどのネガティブな刺激に人間は耐性を持つことが出来る。しかし同時に喜び楽しみといったポジティブな感情もあまりにも連続すると耐性が出来て楽しみが楽しみでなくなっていく。

 

 「私はどんな不幸にも耐えられるが幸運の連続だけは耐えられない」という言葉があるそうですが、きっとそういう意味なのでしょう。以上です。ありがとうございました。