シェアその4

依存と誇り


よろしくお願いします。

 当たり前ですが仕事に不安は付き物です。私にとって適切な不安もあるし、依存性者特有の不安もあります。昔ほどではありませんが、仕事で完璧に期待に応えなければ、有能として立ち振るわなければという焦燥感を少し感じます。でも今思うのは依存の中にいた当時は完璧を装って批判や攻撃されないようにしたかったのだろうと。私は別に高慢に振る舞いたいわけではなかった。傷つきたくないだけだった。傷つけられたくないだけだった。

 

 自分は自分のためではなく、家族と家系の期待に応えねばとがむしゃらにやってきた。出来る子を演じて。しかし成長すればするほど、出来る子を演じるためのハードルは高くなっていく。出来る子が出来なくなった時にたどり着くのは自責感情。そのギャップを埋めるために飲んだ。

 そうやってごまかして成功した時が一番私が飲酒やら過食をしてスリップするときだった。次もうまくごまかさなくてはならないし、そのプレッシャーと自責から飲んだ。うまくごまかした自分の力を過信し、驕りで飲んだ。そんな成功から学んだことは一つもなかった。依存は勝者に与えられる。少なくとも私のような自分が勝者だと思い込みたい人間に。失敗こそが成長なんだと今は思う。自助グループで最大限に保証されている権利は失敗する権利。失敗から学ぶ権利だ。後は他人というハイヤーパワーからご指導を頂いたら良い。

 

 私は治療と自助グループにつながって、謙虚に生きるということを学んだ。偉そうに聞こえるかもしれないが、少なくとも謙虚にしてくださいと祈りながら生きる。良心やモラルだとか治療のためにやらねばならないということではない。そうやって生きることがただただ楽で気持ちいいことに気づいてしまったのだ。それ以外の生き方がもう目に入らないのだ。

 裏を返せば、依存症で底をついたからこそ、謙虚さの難しさと尊さを治療を通して学ぶことが出来た。それ以外の方法は実は今の私には見当たらない。依存症にならず、高慢な生き方でごまかしきれていた人生の方がむしろ生きにくかったのではないだろうか。間違いなく自殺していたと断言できる。そんな私を救ってくれたアル中はもはや私の誇りだ。

 

 すべての人間には人格の多重性がある。一人の中に複数の人格が存在し、状況によって我々は使い分けている。それは自然なことだ。それぞれの人格の中で人間の根源的な欲求、イドに近い人格をインナーチャイルドと呼ぶ。場合によっては複数存在する。さらにその中でも自分を防衛するために依存の仮面を被っている子たちがいる。その子たちが何を言っているのか理解し、迎えに行く作業を治療と呼ぶ。

 

 インナーチャイルド君、今まで守ってくれてありがとう。依存を使って私を守ってくれた君は私の誇りだ。依存も君も両方が私の誇りだ。以上です。ありがとうございました。