シェアその8


よろしくお願いします。

 父と私の関係ですが、そこそこ関わったりイライラしたりしています。以前お伝えしたようにその怒りや不快感も私の大事な財産。

 

 ところで、私の家にある傘立ては相当年代物でだいぶ前に他界した祖父が昔どこからか買ってきたものらしいです。家を建て替えてもそれを使い続けています。陶器製なのですが、大きくヒビが複数入っており、一部欠けていて鋭利で危険です。客人の傘が破けてしまったこともあります。父は断固としてその傘立てを替えることを拒否しています。思い入れは理解できるので、その傘立ては別に保管することも提案しているのですが聞く耳を持ちません。このままでは客人もいつか怪我等をしてしまうかもしれないので、鋭利な部分を応急処理としてテープなどで保護してもそのテープをすぐに剥がして元通りにしてしまう。

 また、もう何年も使っていない他界した祖父の靴を少し場所を変えて保管しておくだけでも母を怒鳴りつけて大騒ぎ。さらには祖父がきまぐれで作った料理を何年経っても未だに保管しています。もちろん腐敗を通り越して炭のような状態になっていて、元が何の料理かわかりません。先日私が渡した父の日と誕生日のプレゼントは返品交換を要求してきました。もう一方は未開封のままホコリを被っています。正直私も怒りを覚えることも多々としてありますし、それは健康な反応だと思います。しかし最近考えていることはこうです。あまり口に出して言いたくはないのですが、父が他界したときに私自身の行動を振り返ってみてどう思うか。後悔しないか、自責感情にかられないか。そういった見方をすると落ち着いて、パワーゲームでもなく、服従でもない、そこそこ適応な行動を取れるようになりました。現時点であまり共依存的な感覚もない。

 

 どうやら父はまだ祖父に対する喪が明けていないらしい。pathological grief/パソロジカルグリーフ、病的な悲嘆という言葉がある。人は家族や大事な人を亡くした際に急に人格がガラッと変わることがある。一時的な抑うつ気分等であればむしろ自然なもので健康的なグリーフとも言えるのだが、それまでは穏やかだった人がその範疇を超えて急に人を怒鳴り散らすようになったり、職場の人間関係で問題となるような騒動を何回も起こし精神科等のお世話になることがある。その人格変容が永続することもある。その人の友人からは気が狂ったのかと思われていたりする。機能不全の家族はその依存関係にうんざりしながらも、父親がアルコール等を使いながらバリバリ仕事で稼いでいるものだから、その関係に依存を続けることがある。以前ここで話したように、依存性者が最も恐れることはその依存がなくなること、つまり変化と回復だが、流石にその依存対象となる人物が他界すると依存を続けることはできなくなる。いや、実は出来る。自分がその依存対象者になり変わってしまえばいいのだ。その人物が依存的に稼いでいたのなら自分が代わりにその危険な役割を担えばいいのだ。こうして回復のきっかけになりうる最も大きな変化、依存対象者の喪失という出来事は否認、抑圧され、病気を含めた家族の恒常性が維持される。こういった経緯は周囲の人間からはわからないので前述のように友人等はただただ狼狽するが、薄っぺらい木造の家の蓋を開けてみるとこんなに単純なことだったりする。 とある精神科医の受け売りになるが、死者が生存者に取り憑くとはこういう意味。

 

 そこで私の家だが祖父が他界した後、上記のように父の高慢さに拍車がかかったような変化が続いている。それは自分を叱って制止してくれる祖父を探してさまよっていると考えると自然だ。デパートで自分の目の前から急にいなくなった親を迷子の子供が泣きじゃくりながら探しさまよっている姿と被って見える。哀れで虚しい。やはり砂の果実としか言いようがない。生死、在、不在に関わらず、父を求めて暴れている人間は最終的に社会という父に制止されることになる。つまり警察だ。先程、父が他界するときに私が自分の行動をどう思うかと話しましたが、父が祖父に対して行っている葬式はまだ明けていないが、私の父に対する喪はもう始まっているのかもしれない。以上です。ありがとうございました。